「見えるようになる」 08.06.15
ヨハネ9:1〜12
生まれつき目の見えなかった盲人が、主イエスによって目を
開かれ、神さまの光に包まれていることを喜び、生きるものに
なっていきました。 この盲人には、私たちの姿が映し出されて
います。
私たちも主イエスによって目を開かれた者だからです。
弟子たちは、主イエスに、どうしてこの人は盲人として苦労を
しているのかと問いました。この人が苦労をしている原因を
探そうとしました。私たちが、辛いことに出合うと原因を探し、
犯人探しをするのと同じです。主イエスは、「神の業がこの
人に現われるためである」とお応えになりました。過去の
悲しみの原因を探すよりも、悲しみの先の将来を見つめて
おられました。
何事にも、原因があって結果があると考えます。
しかし、それを恵みの御手によって修正していかれるのが
神さまです。
主イエスの十字架の死と復活によって、罪ゆえの滅びという
結果を、救いへと修正していかれた神さまに、目を注ぐのです。
そこで、私たちの目は開かれ、将来の希望が見えるものと
なります。
過去の後悔に縛られるのでなく、主の備えてくださる恵みを
期待しながら歩みはじめます。
主イエスに言われたとおりにすると、この盲人の目は見える
ようになりました。しかし、主イエスがおっしゃった「神さまの
み業」は、それだけではありません。この盲人の話は更に続き、
信仰を告白した所で終わります(35〜39節)。
神さまを礼拝するように導いていくことが、御手の働きかけで
あり、神の業です。
私たちも、罪によって神さまが見えずにいました。 しかし、
主イエスによって目を開いていただいたのです。「シロアム」とは
「遣わされた者」という意味です。
そして、神さまから遣わされたお方こそ主イエスです。
シロアムの池で目が開かれるように、主イエスのもとで目が
開かれた私たちは、神さまの恵みの光が自分に注がれている
ことをはっきりと知らされます。
神さまの愛に包まれている幸いを知らされます。
私たちは、それを見つめて感謝しつつ歩みを進めるのです。